戦前の台湾と日本の関係を知る一級の資料
遥かなるとき 台湾
―先住民社会に生きたある日本人警察官の記録―
ISBN4-88978-028-9  本書は、 父・説三が戦前の台湾で一人の警察官として過ごしてきた十八年間の想い出をつづった 「自分史」 である。
 昭和三年 (一九二八年)、 私の父は二十四歳の若さで警察官として台湾へ赴任した。 その後終戦を機に引き揚げて来るまでの間、 東部の臺東縣關山鎮 (旧・台東庁里■支庁) 下で、 理蕃行政 (対先住民政策) の一翼を担う最前線の一員として、 主に先住民との対応に従事してきた。
 赴任当初の台湾はいまだ近代化の途上にあり、 わが国が推し進めていた諸政策も浸透なかばの状態であった。 ことに赴任先の東部方面は、 台北市などのある北部に比べて開発は遅れ、 生活基盤はむろんのこと、 すべての面で近代化は遅々として進んでいなかったようである。
 治安の面でも問題があり、 平野部に住む住民の抗日運動はほぼ治まっていたとはいうものの、 山岳奥地に住んでいた先住民の間にはまだまだ反日的な思想が残っていた。 凄惨を極めた抗日蜂起事件として有名な霧む社しゃ事件が、 先住民・セイダッカたちにより引き起こされたのもそのころである。
 ちなみに、 当時の台湾の総人口は約四百五十万人といわれ、 そのうち本島人 (中国本土から移住して来た人々) が四百万人あまりに先住民が約十四万人で、 内地人 (日本本土から移住した人々) は二十二万と全体に占める割合はわずかなものであった。  
 父は引き揚げたあとも郷里でふたたび警察職に就き、 現役を引退したあと七十二歳で他界した。 生前、 退職後の暇にあかせて、 台湾で過ごした波乱にみちた若き日々の想い出を書き遺のこしていた。 その内容には現地の人々とのかかわり合いの中で、 実際に体験したり見聞きした者だけしか知り得ない、 当時の山岳奥地における先住民の生活の様子や風習、 警察活動の実際がつづられていた。 それは日本によって推し進められた、 台湾近代化の施策の一端を示す実態でもあったわけである。
 本来 「自分史」 なるものは個人のものであって、 安易に公開するべき性質のものではないのかもしれない。 しかし一方で、 父の遺稿には 「記録」 という側面が含まれていることはまぎれもない事実で、 当時の台湾を知る上で非常に興味をそそる種々の記述が随所にみられる。 見方によっては、 その内容には多くの貴重な資料が盛られているともいえるのではないだろうか。 そこでこの際、 一人でも多くの識者に戦前の台湾とわが国との関係の一面を知ってもらいたいとの願いから、 あえて刊行を思い立った次第である。
  「自分史」 であるからには、 記述の中に家族や職場の仲間、 友人関係のことなど 「個人」 の生活にかかわる部分も当然多く含まれていたが、 刊行に際し意識的にその部分も省かないことにした。 その理由は、 台湾の山岳奥地で文明の進展に浴することもなく、 未開の生活を続けてきた先住民社会という特殊な環境に住まいして、 そこを職場として生きてきた多くの人々の苦悩や喜びを、 父の実生活を通して記録として残しておきたかったからにほかならない。  
 山岳奥地の電灯一つない先住民社会で、 すべてを人力のみに依存した生活は、 今日のわれわれの目からみれば、 想像を絶する大変な苦労と困難の連続であったように思える。 しかし、 そのような過酷な条件のもとでも、 台湾の近代化を願い、 力強く生きてきた数多くの指導的立場の日本人がいたことを本書から読みとっていただきたい。
 日本による統治が開始されて以後の五十年間、 台湾の近代化はわが国の方針に基づいて確実に進められていった。 その間に採られた施策の実際がどのようなものであったのだろうか、 またそれに対し現地の人々はどう対応したのであろうか。
 本書に盛られた内容は、 日台関係の長い歴史の大きな流れに比べれば、 枝葉末節のごくごく限られた一地方の出来事でしかない。 しかも権力を行使する側からみた、 一面的な記述である点も否定できない。 しかし、 大志を抱いて台湾に渡った多種多様な分野の日本人の一人一人と、 現地の人々とのかかわり合いのなかで両国間の関係が形成されていったのも否定できない事実なのである。 そしてその延長線上に、 戦後を経た現在の台湾と日本の関係が成り立っているといえるのではないだろうか。
 いまや台湾は、 世界でも有数の近代的な経済大国である。 わが国とは国交がなくなったとはいうものの、 経済や人々の交流といった面で日台間には隣国としての深いつながりが存在する。 しかも台湾の多くの人々は、 かつては支配国であったはずの日本に対し、 戦後一貫して親日的な感情を持ち続けてきたといわれている。 その理由は一体どこにあるのだろうか?
 本書が台湾と日本の関係を考える上で、 何らかの示唆を与えることにつながれば幸いである。

 本書の中でも記述しているように、 戦後の引き揚げの混乱したなかでは、 昔の写真やノート・メモなどの記録に類する資料は何一つとして持ち帰れる状況ではなかった。 したがって、 遺稿はすべて父の記憶のみによって書かれたものであり、 中には記憶違いによる記述も含まれているだろうし、 事実誤認もあろうかと思われる。 原稿作成の際に、 出来得る範囲で検証し、 訂正したつもりであるが、 いまとなっては確認のしようのない事柄がたくさんあったことをご容認いただきたい。
 また、 「霧社事件」 の結末などのように、 その後の綿密な調査によって明確にされた事実と対比すれば、 明らかにあいまいな記述もある。 しかし、 それはそれとして、 それが当時の外部の者が知り得た情報なのだとして、 補完することなく原文の内容どおりに残すことにした。
 なお、 遺稿は明治生まれの父の文章で書かれており、 現在のわれわれには読みづらく、 そのままではだれにも読んでもらえそうになかったので、 全面的に書き直したことをお断わりしておきたい。

 最後に、 本書の刊行に際し多くの方々に大変お世話になった。 ここに記して心から感謝するとともにお礼を申し述べたい。
 台湾観光協会大阪事務所所長・陳水源さんには、 父の活躍の舞台となった地域の当時の状況について調査をお願いし、 快諾いただいた。 数多くのご助言は本書を検証するうえで大いに参考になった。 改めてお礼申し上げたい。
  「月刊 SEMBA」 の元編集長・廣瀬豊さんには文章の不備を随分多く指摘していただいた。 また、 刊行に際し貴重なご助言とご指導ご鞭撻いただき、 心から感謝したい。
 現役の警察官で、 当時の台湾事情に造詣の深い藤川桂さんには警察機構について多くのご助言と、 内容についてのご指摘をいただき、 おおいに参考になった。 本当にありがたいことである。
 会社に勤めていたころの先輩である秦美輝さんには、 最初に原稿を読んでいただき数々の貴重なご意見をお寄せ下さったこと。 また、 その言葉に励まされて、 何とか刊行に至ったことに心から感謝したい。
 表題は知人の書道家、 桂泉 樋口陽子さんにお願いして書いていただいた。 この題字によって本書の表情が一段と引き立つものになったことを喜ぶと同時に、 そのご厚意に心よりお礼申し上げたい。
 最後に、 気まぐれな私の言い出す無理難題に快く親身になって相談に応じてくださり、 こんなにも立派な本に仕上げていただいた関西図書出版社長・鎌田宣夫さんに心から感謝申し上げる。
 これら多くの方々の厚意に支えられて、 父の遺稿を形あるものとして公開できた喜びを、 私自身いまじっくりとかみしめている。
わが国と台湾の関係を知るために
 戦前台湾に住んでいた日本人と、 台湾に住む人々との間に種々の形で交流が行われている話を、 最近しばしば耳にする。 しかし一方で、 戦後生まれの若い日本人の意識の中に、 かつての同胞であった台湾の人々に対する特別の感情があるのだろうか。 観光客として訪れる多くの若者が、 単なる 「近隣の外国の一つ」 という感覚で台湾との関係をとらえているように思うのは、 私だけであろうか。
 その理由の一つは、 戦後教育の中で、 日台関係がそれほど詳しく取り上げられなかったことに起因しているのかもしれない。 しかし善きにつけあしきにつけ、 かつて両国間には深く密接な関係が存在したことは、 否定し難い歴史上の事実なのである。
 そこで本書を読むまえに、 台湾と日本が歴史上どのような関係をもってきたかを、 参考のため簡単に振り返ってみることにしたい。

 日清戦争 (甲午戦争) がわが国の勝利に終わり、 明治二十八年 (一八九五年) 四月十七日、 日本側全権・伊藤博文、 陸奥宗光と清国側全権・李鴻章、 李経方との間で、 下関において講和条約 (下関条約) が調印され、 台湾の日本への割譲が決定した。 以来、 昭和二十年 (一九四五年) 八月十五日、 わが国が太平洋戦争に破れ、 ポツダム宣言を受諾したことにより中国に返還されるまでのちょうど五十年間、 台湾は日本の一地方であり、 台湾に住んでいたすべての人は日本人であった。
 割譲によりわが国の植民地となった台湾の統治が、 最初から順調に進展したわけではない。 清国中央 (朝廷) の台湾割譲によって見捨てられた台湾在住の人々は、 「台湾民主国」 の独立を宣言し、 五万とも十万ともいわれる傭兵と義勇軍からなる軍事力をもって日本の進攻に抵抗した。 それに対し、 わが国は圧倒的に強力な軍隊の力で抑え込んだが、 日本側にも多数の犠牲者が出た。 その死者の大多数は、 戦死者よりも、 むしろマラリアを始めとするコレラ、 赤痢などの疫病による戦病死者であったと伝えられている。 この事実は、 当時の台湾が、 それほどに非衛生的で、 風土病の蔓まん延えんする過酷な住環境の地であったということを示している。
 台湾の近代化を目指して日本 (総督府) がまず行ったことは、 徹底した詳細な実地調査による台湾の実態の把握であった。 そして、 その結果に基づいて道路、 交通、 港湾等のインフラ (産業基盤) の整備、 農地の開拓と利水の整備、 製糖事業の育成などの施策が次々と強力に推し進められていった。 また、 衛生環境の面でも改善が図られ、 公共医療制度の拡充、 都市部における上下水道設備の完成など目覚しいものがあり、 当時の日本本土よりも、 より進んだ施策が行われ、 設備の充実が図られたといわれている。
 同時に、 他方では法律を厳密に定め、 かつ厳格に施行する日本式の法治の徹底が推し進められた。 これにより、 従来の台湾からは考えも及ばなかった治安の安定した、 安全な社会が形成されていくのである。
 これらの制度の立案や施行に第四代総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平が辣らつ腕わんをふるい、 台湾の近代化に大きく貢献したことはあまりにも有名である。
 多くの施策の中で、 一視同仁 (すべての人は平等であるとの考え) の思想に立脚した学校教育の普及に、 一貫して力が注がれた点も特筆される。 小 (公) 学校を始めとする各種学校の創設は、 本島人や先住民を含む台湾に住んでいたすべての人々の日本人化、 つまり皇民化政策の一環でもあったわけであるが、 一方で多くの優れた人材を輩出したのも事実である。 統治が開始された当時、 組織的な教育などほとんど行われていなかった台湾で、 五十年後には小学校児童の就学率が九〇パーセント以上に達したことは、 いかに総督府が教育の重要性を認識していたかを如実に示すものといえる。
 台湾の近代化を図るための制度上の特徴は、 諸政策の強力な推進役として、 警察組織が活用されたことだ。 治安維持や厳格な順法精神の徹底といった本来の警察活動だけのみならず、 産業基盤の整備や教育面にまでも上意下達の手段として、 その組織が利用されてきたのである。  
 総督府の採った諸施策は、 かつて欧米列強が行ってきたような搾取と隷属、 さらには先住民の奴隷化を強いる、 いわゆる従来型の植民地政策とは大きく異なったものであったと伝えられている。 すなわち、 日本は台湾を植民地として搾取の対象と考えたのではなく、 むしろ、 住人を含めた台湾を日本本土の一部、 一地方にするような努力がなされたというわけである。
 このような見方が、 多分に日本人の立場からみた都合のよい身勝手な史観であることを、 むろん否定するものではない。 事実、 それらの諸施策のすべてが現地の人々に喜んで受け入れられたわけではなく、 その過程では多くの抗日的な抵抗運動や蜂起事件が起きた。 「台湾民主国」 の崩壊後も、 十数年にわたり局地的な抗日蜂起はしばしばみられたが、 これら抗日的な運動は強大な国家権力を背景にした力で抑え込まれた。 その度に、 多大な犠牲を伴ったことも見逃せない事実なのである。

 このような歴史的な事実を台湾の人々がどのように捉え、 どう認識してきたかを正しく理解した上で、 われわれは今後の日台両国間の関係を考える必要があるのではないだろうか。

青木 説三著
A5判360頁
定価(本体2800円+税)
品切れ中

目次

はじめに
わが国と台湾の関係を知るために
新任警察官として台湾へ
 (大正から昭和へ)
台湾へ行くことになった動機
出発の途に
練習所生活
台東庁へ赴任
赴任途上のことなど
最初の任地・里
支庁へ
拳銃盗難事件の発生
被留置人の逃走事件
「関山越道路開削捜索隊」 の編成
再び里
支庁へ
内勤在任中のことなど
霧社事件のこと
大関山事件の発生
独身時代に別れを告げて
 (昭和八年・一九三三年から昭和十年へ)
内地帰省と妻帯のことなど
逢坂事件の発生

武徳殿の建設

事情のさまざま
台湾の正月風景
本島人の正月風景
台湾人の風習など
「保甲制度」 のことなど
在郷軍人会の事務取扱
行政地域外 (先住民居住地域) での勤務
 (昭和十年・一九三五年から昭和十三年へ)
紅葉渓監督時代
紅葉渓教育所のこと
紅葉渓療養所のこと
パシカウ渓交易所のこと
授産と輪耕作 (焼畑農業) のこと
定地耕作の指導
陸稲多収穫競技会のこと
水田耕作のこと
紅葉渓牧場のこと
先住民たちの衛生状態とその対策
ブヌン族の酒飲み風景とその禁止令
蕃社会議のこと
青年団の指導と各種競技会
国語演習会
愛犬ロミのことなど
日中戦争の始まりと先住民社会での生活
 (昭和十二年・一九三七年から昭和十六年へ)
日中戦争 (日支事変) と台東警備隊
正月行事の鯉とり
長男の誕生
津野事件の発生
紅葉渓山荘の浴場建設
ブヌン族の旧習打破
ブヌン族の狩猟と銃器の買いあげ
桃林監督へ転任
金子君のこと
桃林における長男のことなど
来訪者のことなど
地元ブヌン族の移住
妻子の内地帰省のことなど
桃林駐在所のことなど
内本鹿事件の発生
襲撃犯の追跡行
「出草」 について
楓駐在所へ赴任
太平洋戦争の開戦とその後
 (昭和十六年・一九四一年から昭和二十年へ)
大埔監督へ就任
中野監督時代
二男誕生のこと
池上飛行場のこと
中野へ復帰のことなど
大長老ラシタルの死
結核の特効薬と玉咲つづらふじのこと
池上監督時代
警部補外勤主任に就任
池上派出所当時のことなど
池上の初空襲
「神水」 汲みさわぎ
妻と二男の遭難
戦闘激化の様子など
長男の国民学校 (小学校) 入学
米軍の伝単散布
戦時下の供出と農耕
敵降下に備えて
命中しない重爆機の爆撃
渡辺君の死亡と遺骨の引渡し
飛び石作戦とソ連の参戦
終戦と戦後、 そして懐かしの故国へ
 (昭和二十年・一九四五年から)
終戦
中国軍の台湾進駐のことなど
昭和二十一年を迎えた
中国役人の来任
故国への引き揚げ
あとがきにかえて ―父への思い―

編集後記